2022年9月、横浜市にお住いの方から電話があった。聞けば、開校時教職員の一人古澤與總(よそう)教諭のひ孫さんという。「明治32年12月」の埼玉県第三中学校の教職員の写真が見つかり、その裏にそれぞれの人物の名前が書かれている、という。「埼玉県第三中学校」が現在の県立川越高校と知ってご連絡いただいたとのこと。さっそく送っていただいた。左がその写真と裏書に記された名前と肩書である。
写真そのものは百周年記念誌『くすの木』で掲載したものと同じで、記念誌本文に開校時の教職員11人の名前や教科などが記されているが、写真のどれが誰に当たるのか、増野悦興校長と和田亀之助教務主任以外はわからなかった。
送って頂いた写真の裏書には「明治32年12月 埼玉縣第三中学校 講堂ニ於テ撮影」と、撮影時期と場所、増野悦興校長以下11人の名前が記されている。これだけでも貴重な歴史的資料で、写真に写ったそれぞれの人物を、裏書に記された名前で確認できる。(裏書の名前は、写真を裏返してそれぞれの人物のところに記されているので、左右が逆になっている。)
確認してみると、その中には本文にある「剣道指南 星野仙蔵」の名前はなく、代わりに「助教諭心得 陸軍歩兵少尉 鈴木」という名前がある。写真では後列右端の人物である。これはどういうことか?
改めて「学友会報」創刊号を確認すると、星野仙蔵氏は開校時には確かに「剣道指南」の嘱託として在職していたが、一身上の事情により8月に辞職していた。従って写真を撮影した12月にはすでに第三中学校を去っていたのである。ただ星野氏の後任は、川越の剣道道場明信館(現川越小学校の敷地にあった)初代館長の阿部親昵氏で、一方別の資料で「鈴木庸三」という助教諭が同年11月に助教諭心得として着任し、翌年に「助教諭」の免許を得ていることがわかった。写真に写っている「助教諭心得 鈴木」が「鈴木庸三」助教諭であることは間違いない。
なお古澤與總教諭は写真では前列左から2人目。古澤教諭は新潟県出身で東京専門学校で学び、明治31年5月に川越高等小学校の嘱託教員になった。百周年記念誌によると、川越高等小学校で第三中学校を受験する生徒の世話をして、合格した生徒の入学と同時に明治32年4月に新規開校の第三中学校に赴任した。開校1年目の第三中学校は優秀な生徒を2年生にしたが(岡田恒輔氏や岩澤新平氏、安部立郎氏など)、その多くは高等小学校で学んだ生徒である。そのような関係から古澤教諭が開校時の2年生の担任(資料では「二年級監督」)になったと考えられる。古澤教諭は英語の教員だったが、2年後の明治34(1901)年3月に郷里の新潟県高田中学校に転任した。ここに20年間在職してこの間教頭にもなったが、大正
10(1921)年に辞職した後は、台湾の台北第一中学校に赴任したという。
この記事は、「川中・川高はじめの物語」 の「1899年(明治32年)4月28日 開校 中1・2回」の項目にも追記してあります。