1901年(明治34年 中4回)川越中学校と改称

 129名が志願し、120名が入学した。開校3年目、学友会「会報」第1号発行。5月10日編集責任者に嘱託教師寺尾熊三先生が委嘱され、生徒14名が編集委員となり、創刊号では開校後の2年半分を扱った。編集期間は4ヵ月間、9月10日、学友会「会報」第1号を発行。印刷費は106円59銭5厘だった。

 8月13日、県知事の告示により校名が「川越中学校」と改称された。

 12月1日学芸大会開催。秋に開催されている父兄会が単調で参加者数も思わしくないと言うことから、生徒の作品や実地演習を披露して父兄の関心を集めようとしたもの。作品は、習字、図画、地図、植物標本、地図模型、製作機械。修学旅行の写真も併せて、講堂と3教室に展示した。演習の部は雨天体操場を会場に、和英文章の暗唱、朗読、演説、対話、理化学実験が披露された。

 9月23日、第4回講話会。嘱託教師 寺尾熊三先生「札幌農学校の過去及現在」 教諭 村瀬米之助先生「地理学より見たる埼玉県」  11月9日、第5回講話会。海軍大佐 国友次郎氏「海軍思想に就きて」 1月19日、第6回講話会。学校長 増野悦興先生「中学校教育の第一義」 東京専門学校講師 安部磯雄氏「英独学生の気質」「欧米諸大学に於ける教育」 第6回の講師安部磯雄は社会主義者であると同時に自由主義的なキリスト教徒でもある。東京専門学校は現早稲田大学。増野校長と安部は同時期に同志社で新島襄の薫陶を受けている。安部氏の講話に思想的な内容は見られなかったが、1ヶ月後増野校長は突如休職を命じられた。知事との対立が原因とされるが真相は明らかではない。和田亀之助教諭が校長事務取扱となる。