● 嘉納治五郎氏と川中
近ごろ、『いだてん』なる大河ドラマが巷間をにぎわす。大いに愉快だ。第一話では日本に初めてオリンピック招致をするも夢果たせなかった嘉納治五郎氏が描かれる。実はその昔、嘉納氏は東京高等師範学校長として川中を訪れている。川越中学校が明治32年に創立されてまもなくのころ、時は日露戦争に向かっていく時代であった。
「…明治二十七・八年(1894・1895)の日清戦争の勝利とともに、撃剣・柔術などの武術を学校に取り入れよという要求が高まり、文部省は明治二十九年(1896)に撃剣・柔術の衛生上における利害を学校衛生顧問に諮問した。しかし、満十五歳以上の強壮者に限り正課外に行うは可能だが、随意化とするは不可なりと答申してきたので、文部省は明治三十一年(1897)にこの趣旨を各学校に伝達した。その一方で、小沢卯之助や星野仙蔵[1](1870 – 1917)など剣道関係者を中心に、撃剣・柔道を学校正課に加えよという請願が国会に提出される。この頃になると、文部省も実地調査の必要を認めて、小森慶助、三島通良[2](1866- 1925)、それに高師校長の嘉納[3](1860 – 1938)等も川越中学校の撃剣体操を見学に行くなどした。同三十九年(1906)の第二十二議会衆議院には「中学程度の諸学校に体育正課と して剣術若くは剣術形の体操(練胆操術)または柔術若しくは柔術形の体操の何れかを調査の上 其の一を教育せしむべし」とする「体育に関する建議案」が可決された…」(「学校教育武道の役割」藤堂・桐生)
当時川中では明治33年学友会が発足し、第一回運動会が開かれた。競技種目は時代を反映し、旗取り、擊剣紅白試合などというものもあった。体操の科目として兵式体操を行う時代でもあった。文部省の意向を受け、導入の是非を提言するため、川越中学校の擊剣体操視察に来川したようである。つまびらかなことは識者の論を待ちたいが、それから幾星霜、名称を変えながら、敗戦後剣道柔道がGHQの指令で一時禁止され、そののちスポーツとしてあらたに再生されていく武道の歴史に思いを馳せると、感慨深いものがある。
参考資料:『講道館柔道科学研究会紀要』 藤堂良明氏 桐生習作「3学校教育武道の役割」/『川越歴史散歩-小江戸の残照』小泉功/『三島通良』 杉浦守邦 学校保健 第106号(S50.3.1)財団法人日本学校保健会会報/『柔道「慰心法」の導入と嘉納治五郎の思想』武道学研究 桐生習作/『気概と行動の教育者 嘉納治五郎』生誕一五〇年周年記念出版委員会/川越高校創立80周年記念誌
[1] 星野仙蔵氏:剣道八段の達人。柔剣道を中学校の正科に加えることに尽力。川越中学校、川越警察で嘱託師。東上線普及に貢献。新河岸川舟運が盛んな頃、福田屋という回漕問屋を開店。現在ふじみ野市立福岡河岸記念館となっている。
[2] 三島通良氏:入間郡霞が関村笠幡出身。医学者。学校保健の創始者。全国公立学校に学校医制度創設。現在生家跡地は、三島日光神社として残る。
[3] 嘉納治五郎氏:柔道創設者。武術などをスポーツとして近代化させ、教育の一貫として普及させる。初のIOC委員として幻に終わった東京でのオリンピックを招致する。
* 一言補足
『創立80周年記念誌』(HPより閲覧可)で、川中の剣道・柔道の歴史を垣間見ることができる。大正10年ごろの科目表に、武道が独立教科として初登場する。体操の教授内容は「体操、教練、遊戯及競技剣道及柔道」と記され、「剣道・柔道」という名称が使われはじめている。大正12年の川中「日誌抄」をみていると、指導の記録としてお二人の名前に目がとまった。
6月17日 高野佐三郎氏剣道指導
6月20日 七段三船氏柔道指導
高野氏は川中剣道を発展させた星野仙蔵氏の師範。三船氏は柔道を広めた講道館指南役。時代から考えて、雨天体操場で指導されたのであろうか。雨天体操場は明治33年5月新築されている。当時の写真をみると、現在の運動場の校舎に近い場所を南北に走るように建てられている。木造平屋建ての雨天体操場は生徒の全体の集合場所として、また儀式のときには紅白幕を張り巡らして使われた。柔剣道の道場もかねており、板張りの壁、天井も張ってない状態であったという。達人のお二人が来校されたとき、道場の様子はいかばかりのものであっただろう。想像の域を出ないが、緊張の中、直接手ほどきを受ける生徒諸君の欣喜雀躍する姿が見えてくる。
(4)高野 佐三郎氏(1862 – 1950年)は、剣聖と呼ばれた日本の剣道家。昭和初期剣道界の第一人者。武蔵国秩父郡に生まれる。撃剣・柔術が中等学校の正課と決定されると、その指導者養成に貢献。川越に縁あり川中剣道部の指導する機会も持たれている。川越本丸御殿前に立つ「初雁武徳殿」の碑は高野佐三郎氏の揮毫になる。弟子の星野仙蔵氏は高野氏から免許皆伝を受けている。因みに、星野氏の著した『錬胆操術』には、嘉納治五郎、三島通良、前原仙治郎(第3代川中校長)の三氏が序文を寄せ、当時の武道教育への熱を感じる。
戦後第13代同窓会長として母校を支えた山崎嘉七氏(中7回)は『創立70周年記念誌』の中で、前原先生は武道と水泳がことのほか熱心で、ご自身も剣道を学び、生徒には柔道または剣道のいずれかを必修科目として練習させ、野球などはむしろ排斥されて、今の時代には想像つかないことだった、と回顧されている。また、当時の水泳は観海流が主であり、現在のウォーターボーイズの泳ぎっぷりに第三代校長前原先生はさぞかし瞠目されていることだろう。
(5)三船 久蔵氏(1883 – 1965)は日本の柔道家。宮城県九戸郡久慈町に生まれる。段位は講道館柔道十段。(川中指導時は七段位)身長159cm、体重55kg。小柄な体型ながら「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから「柔道の神様」と呼ばれる。多数の柔道技を編み出し、その真髄といえるのが「空気投げ(隅落)」である。講道館指南役として柔道の普及、発展に多大な功績を残した。
雨天体操場は運動場側 右の建物が雨天体操場
「私が1,2年の頃、道場は雨天体操場と兼用だった。雨天体操場と階段教室の間にも一株見事な桜があった。雨天体操場の南半分が畳を敷いた柔道場で、北半分が剣道場だったが、建物の中は広々として薄暗く、放課後の柔道部の稽古のときは滅多に稽古をつけてもらえないので、ただひたすらに上級生の稽古を見学しながら、道場の隅であぐらをかいて寒さをこらえていた。・・・四年生になった頃には、もと寄宿舎だった建物の中へ柔道場だけが移っていた。そこは狭かったが、明るくとても気持のよい道場だった。」(川中33回 野上誠氏)
「入学発表の日が来た。友達を誘って、その発表を見にゆく。雨天体操場に張り出してある。それが成績順で、もう組み分けも記入してある。自分の名を見つけてホットするもの、しおしおと帰るもの、悲喜交々である。『合格者は、校長室に出頭せよ』とある。私達は恐る恐る校長室のドアーを開けて、校長先生の前に不動の姿勢をとる。校長先生は前原仙次郎といって、詰襟の洋服、骨張った顔で、私達を睨みつけた。余り風采があがらない。何か細々と言われたようだが、覚えていない。ただ『君達は、きょうからこの学校の生徒であるから、帽子に本校の徽章をつけてよろしい—』との意味のことを言われた。・・・」(川中9回 有山余志三氏)
高野佐三郎氏揮毫