新一万円札の顔となり、にわかに脚光を浴びている渋沢栄一氏(1840-1931)は埼玉県が生んだ大実業家。500以上の会社を設立、日本の資本主義を育てました。その業績はあらためて記すまでもありません。1924年(大正13)5月25日本校創立25周年記念祝賀式が挙行されました。その記念品として頒布された扇子には渋沢氏の漢詩が揮毫され保存されています。その扇面は表装され、図書館内に飾られ本校生徒諸君の励みとなっています。
その経緯は創立70周年記念誌に仔細をみることができます。
「誘掖会の学寮が東京牛込にあった頃、本校卒業生でこの寮に出入し、従って渋沢老先生の謦咳に接した同窓も少なからず、岡田萬雄(かずお)氏(中1)も嘗て早稲田大学に在学中渋沢氏の知遇を得た関係で、高令八十五才の同氏がこの記念事業の幹事役だった岡田氏の求めに応じて特にその揮毫を快諾した」
〇 渋沢栄一氏揮毫の扇面
待有余而 余り有るを待ちて
済人終無 人を済はば終に
済人之日 人を済ふの日無けん
待有暇而 暇有るを待ちて
読書必無 書を読まば必ずや
読書之時 書を読むの時無けん
為川越中学創 川越中学創立
立二十五年記念 二十五周年の為に
青渕老人書 青渕老人書
余裕ができるのを待って人を済い助けようとするならば
いつになっても人を済う日はおとずれないであろう
暇のできるのを待って書を読もうとするならば
必ずや書を読むときはやって来ないであろう
川越中学創立二十五周年記念の為に
青渕老人書
* 解説は、元埼玉大学教授山野清二郎氏(高12回)によるものです。
本校紀要39号より引用しました。
尚、「青渕」は渋沢栄一氏の雅号。
渋沢氏は数多くの名言を表しています。自戒となし、ご紹介します。
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すべて形式に流れると
精神が乏しくなる。
何でも日々新たにという
心がけが大事である。
●
どんなに勉強し、
勤勉であっても、
上手くいかないこともある。
これは機がまだ熟していないからであるから、
ますます自らを鼓舞して
耐えなければならない。
●
ただそれを知っただけでは上手くいかない。
好きになればその道に向かって進む。
もしそれを心から楽しむことが出来れば、
いかなる困難にもくじけることなく
進むことができるのだ。
〇 「渋沢栄一記念財団」が提供するデジタル資料の中に、渋沢氏が川越中学校を訪問された記録があります。そのまま添付させていただきます。川越中学校で講演されたようですが、残念なことにその講演内容は不明のようです。日誌を拝見しますと、渋沢氏の足跡は至る所に及び、その健脚ぶりに瞠目するばかりです。
渋沢栄一 日記 明治四三年 (渋沢子爵家所蔵)
九月四日 晴 暑
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、又来人ニ接ス、午前八時二十分王子発ノ汽車ニテ川越ニ赴ク、車中高田早苗氏及国民新聞社員同伴ス荒川流域ノ洪水後荒涼ノ有様ヲ車中ヨリ一覧ス、大宮ヨリ電車ニ乗替ヘテ川越ニ抵リ、迎ノ為メ数名来リテ同車ス、特別ノ列車ニテ送迎ス川越ニ抵レハ商業会議所員数十人来リ迎フ、先ツ喜多院ニ抵リテ古記録及古宝物ヲ一覧ス、後商業会議所ニ於テ午飧ス、午後一時ヨリ中学校ニ於ル演説会ニ出席シテ、大国民ノ襟度ト題スル演説ヲ為シ、畢テ三時発ニテ帰京ノ途ニ就ク、午後六時王子ニ帰着○下略
○演説筆記ヲ欠ク。
○是年八月中旬洪水アリ、罹災地区ハ東京府ヲ初メ二府二十八県ニ及ビ「臨時水害救済会」設立セラレ、栄一副総裁トシテ尽力ス。本資料第三十一巻所収「臨時水害救済会」参照。
〇 「誘掖会主催剣道大会優勝記念(大正11)」(卒業アルバムより)写真に本校生徒とおさまる渋沢氏の姿が見えます。
*「埼玉誘掖会」:明治35年に埼玉県出身の実業家である渋沢栄一翁、わが国最初の林学博士である本多静六博士らが発起人となって、朝野の浄財を集め、埼玉県出身学生を助けるため、寄宿舎の運営及び奨学金貸与等を目的として、当時の東京市牛込区に設立された。初代会頭は渋沢栄一翁が就任。