1902年(明治35年 中5回) 第1回卒業式

 4月12日、第4回入学式。98名が入学。5月9日10名を追加募集。10月20日休職中の増野氏、本職を免じられる。3月3日、第2代校長として小倉敏行氏が着任。

 学友会組織が若干改められ、風紀、学芸、運動、会計の4部編成となった。学芸部は講話会や展覧会を主催。運動部は、運動会を主催するほか、撃剣、柔道、野球、庭球、ソフトボールの5部からなり、生徒はこの中のいずれかに所属することが義務づけられた。部活動の始まりである。

 またこの年の運動会で「運動時報社」なる組織が活躍、春夏2回の運動会に5年生の矢部謙次郎(後時事新報社勤務)が中心となり他の5年生12名とその日の競技結果をわら半紙大の新聞にして発行した。

 1月25日、学友会「会報」第二号発行。3月1日、第7回講話会 陸軍参謀本部 楠山大尉「最近7,8年に起これる出来事に鑑み帝国国民の軍事上の覚悟」 校医 井上力氏「独逸国大学の状況及学生体格に就いて」 教諭 磯部精一先生 「英語の歴史に就いて」 この回から生徒の弁論の練習会を兼ね18名が登壇した。

 3月30日、第1回卒業証書授与式。卒業生は29名。式次第 県知事臨場 校長挙式の旨告ぐ 唱歌「君が代」2回 教育勅語奉読 卒業証書授与 校長式辞 県知事告示 来賓祝辞 職員惣代祝辞 生徒惣代祝辞 卒業生惣代答辞 卒業式の歌 賞状授与 校長終式の旨告ぐ 県知事退場