陸上競技部の歴史

 陸上競技部は、大正7年徒歩部として創立された。同14年競技部と改称。昭和になると鈴木聞多というスーパースターを生む。

 鈴木聞多先輩は、大正5年4月1日比企郡三保谷村(現川島町)に生まれる。川越中学入学。昭和5年第16回全国中学校陸上競技選手権大会100m200mに優勝。川中卒業後は、慶應義塾大学に進学、ベルリンオリンピックに100m、4×100mRで出場。ベスト記録は100m10”6。200m21”6.400m50”0。当時の日本を代表するスプリンターだった。昭和14年7月10日中国で戦死。享年26歳。

 昭和18年から21年までは休部状態が続き、その後陸上競技部として再スタート。昭和26年からは黄金期が続く。まず、紫藤研一選手、全国高校東西対抗陸上競技選手権大会走り幅跳優勝。またこの年から学総体埼玉大会で4年連続優勝・埼玉駅伝大会高校の部で4連覇。関東高校選手権大会で2連覇。全国高校駅伝に初出場で6位に入賞。27年、全国高校駅伝に初出場で3位入賞。28年、木村昭夫選手学総体全国高校陸上競技大会(インターハイ)5,000m優勝。昭和32年関東高校選手権大会優勝。昭和33年34年には黒田栄次選手が全国高校東西対抗陸上競技選手権大会5000mで2連覇。松本利雄先生の指導のもと全国に名前をとどろかせた。その後昭和40年頃までは、コンスタントにインターハイへ選手を送り込んできた。その後山谷はあるものの数多くの選手を全国大会に送り出している。最近では平成21年に4×100mRで奈良インターハイに出場を果たした。